説教「新しい命へと導かれる」

2024年3月31日、六浦谷間の集会

「復活節第1主日イースター礼拝

                      

説教・「新しい命へと導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書55章1-7節

   コリントの信徒への手紙<一>15章1-11節

   ヨハネによる福音書20章1-18節

賛美・(説教前)讃美歌21・325「キリスト・イエスは」

   (説教後)讃美歌21・327「すべての民よ、よろこべ」

 

 今朝は主イエス・キリストの復活祭であります。前週の金曜日に十字架につけられ、金曜日の夕刻にはお墓に埋葬されますが、三日目の日曜日の朝に復活されました。今日は主のご復活のお祝いであります。40日間、イエス様のご受難を仰ぎ見つつ歩んできた私たちに、聖書は「キリストは復活しました」と知らせています。クリスマスは暗黒の社会に救い主がお産まれになったということでお祝いします。しかし、まだ幼子であり、何となく現実味がありません。それに対して、イースターは苦難の死から甦りという、輝かしい示しがあり、現実的に共におられる主イエス・キリストを示されるのであります。もはや、苦しみも悲しみもない、そういう現実が与えられているのであります。お弟子さんたちにとって、3年間、共に歩まれたイエス様は心に示されています。人々に神様のお心を示し、驚くような技を示しておられたイエス様は、もはや墓に埋葬されているとの思いです。しかし、今、復活のイエス様にお会いすることになったとき、新しいイエス様として信じるようになるのです。お弟子さん達はご復活のイエス様に出会い、信じがたいことですが、次第に復活のイエス様を信じるようになり、大きな喜びへと変えられていくのであります。

 伝統的なヨーロッパの教会では、主イエス・キリストが三日目の日曜日の早朝にご復活されたことから、深夜に教会に集まり、ロウソクを手に讃美を歌い、牧師が復活に関する聖書の言葉を30分かけて読むのを聞き、イエス様の甦りを喜びあうと言われています。外は寒く、礼拝堂から出てくると、ほおが切り裂かれるような寒気がありますが、体中が燃えているようで、寒さの中を喜び勇んで帰っていくということでした。これは、先輩の牧師、尾崎憲治先生がドイツにおられる頃のことを書いていることです。私たちも復活の告知をいただき、今がこのような状況でありましょうとも、喜び勇んで、与えられた人生を踏みしめて歩みたいのであります。

 本日の聖書はイザヤ書55章でありますが、イザヤ書は53章で「主の僕」を示しています。そこには人々を救うために、神様から遣わされた「僕」が苦難を通して救いの道を導くことが示されています。そして本日の55章は「主の僕」の福音を基として、み言葉の力を示しているのであります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るが良い。銀を持たない者もくるがよい」と招きの言葉を与えています。これは主イエス・キリストの招きの言葉にもなっています。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章28節~)とイエス様が導いています。さらにイザヤは示しています。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」と教えておられます。この言葉も主イエス・キリストの言葉となっています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイによる福音書7章7節)と人々を招いているのです。

捕われの境遇にある人々に慰めと希望を与えているイザヤであります。しかし、これは単なる言葉ではありません。今や私たちは現実に「主の僕」が現れ、私の現実を担っておられることを示されているのです。「主の僕」がわたしの苦しみを担い、わたしの悲しみを担っておられることを示されているのです。40日間の主のご受難を仰ぎ見つつ歩んだ私たちは、主イエス・キリストが私を担っておられることを示されたのであります。それでも、わたしの苦しみはまだ続きますと言いますか、悲しみは耐えることがないと言うのでしょうか。確かに苦しみと悲しみはまだ現実に続いています。しかし、もはや、私一人で苦しんでいるとは思ってはなりません。誰も私の悲しみを分かってくれないと思ってはならないのです。私の現実を共に歩むために主イエス・キリストはご受難の道を歩まれたのです。そして、そのご受難は死で終わりました。しかし、それは終わりではありません。始まりであったのです。復活され、さらに私たちを導いてくださいます。現実をいろいろな状況で歩む私たちに、「ご復活のイエス様に導かれる」喜びを与えられて歩みたいのです。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」のであります。マグダラのマリアさんがイエス様を埋葬しているお墓に行きますと、石が墓から取りのけられていたのであります。これはヨハネによる福音書は記していませんが、マタイによる福音書によりますと、イエス様はかねてより復活することを人々に示していました。それで、十字架から降ろされ、墓に埋葬されたとき、時の社会の指導者達は墓の入り口に大きな石でふさいだのです。この当時の墓は横穴を掘り、その奥に死体を安置していました。弟子達がイエス様の死体を盗み、イエス様は復活したと言いふらすと思ったからでした。そして、番兵まで立たせたと記しています。マグダラのマリアさんが墓に行くと、石は取りのけられていました。驚いたマリアさんは、急いでお弟子さん達に知らせに行きました。弟子のシモン・ペトロさんとイエス様が愛しておられたもう一人のお弟子さんはいそいで墓に行き、イエス様のなきがらがないことを確認したのでした。そして、彼らは帰って行きました。しかし、マリアさんは墓の外に立って泣いていたのです。泣きながら墓の中を見ました。するとそこに白い衣を着た二人の天使がいたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は言いました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いつつ後を振り向くと、そこに復活されたイエス様が立っていたのであります。しかし、マリアさんはイエス様だとは分かりません。イエス様が「マリア」と呼ばれたとき、初めてその方がイエス様であることが分かったのでした。そして、マリアさんは急いで弟子達のところに行き「わたしは主を見ました」と報告したのです。

 イエス様のお墓にペトロさんもヨハネさんもマリアさんも行きました。そして、イエス様のあるべき死体がないという事実を知った三人です。しかし、マリアさんが最初に復活されたイエス様にお会いすることができたのです。ここに一つのメッセージがあるのです。ペトロさんもヨハネさんも、マリアさんから知らせを聞いて、二人は競うように墓へと走りました。お墓にはイエス様の体はありませんでした。その時点では、彼らは不可解との思いで帰ったのです。しかし、マリアさんはイエス様の死体がないという事実を知り、その事実の中に立ち続けていたのであります。ペトロさんもヨハネさんも事実を知りましたが、もはや事実を後にして帰りました。この事実の中に立ち続けるとき、そしてその事実の故に途方にくれているとき、復活の主イエス・キリストは事実を導くために現れたのであります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟達のところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」と言われたのです。このイエス様の言葉を聞いて、マリアさんはイエス様のお弟子さん達のところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げたのであります。

 現実は途方にくれる状況でした。そこに立ち続けたマリアさんは、思いもかけない現実へと導かれたのです。困難な、悲しむべき現実でした。しかし、そこに立ち続けたマリアさんは、「わたしは主を見た」と確信をもって言うことができる現実の喜びへと導かれたのであります。「わたしは主を見た」と言うとき、「新しい命」へと導かれていたのです。

 「わたしは主を見た」と言うのはコリントの信徒への手紙を書いているパウロさんです。彼はもともと熱心なユダヤ教徒でありました。その熱心さが、主イエス・キリストを信じる人々を迫害することになるのです。迫害するためにダマスコの町へ赴く途上、復活の主イエス・キリストに出会うのであります。そのとき、彼はイエス様の声を聞きました。「なぜ、わたしを迫害するのか」との声を聞いたとき、「主よ、あなたはどなたですか」と聞きます。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と言われたのであります。このことを機にパウロさんはイエス様を信じる者になりました。この出会いをパウロさんは「わたしは主を見た」と言わせています。最も大切なこととしてパウロさんが信じているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」であります。「ご復活のイエス様に導かれる」パウロさんでありました。

 主イエス・キリストの復活を、証明する必要はありません。「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」ことをそのまま信じることです。復活されたイエス様は、現実に生きることを導き、現実は途方にくれる状況です。そこに立ち続けたマリアさんは、思いもかけない新しい現実へと導かれたのです。そして、「ご復活のイエス様に導かれる」始まりとなったのです。ご復活された主イエス・キリストは、私の現実を共に歩まれ、導いてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。復活のイエス様を与えてくださり、感謝いたします。ご復活の主に導かれながら歩ませてください。主のみ名により、アーメン。

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説教「祝福の人生に導かれる」

2024年3月24日、三崎教会

「受難節第6主日」 受難週礼拝

                      

説教・「祝福の人生に導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記22章1-5節

   ヨハネによる福音書18章28-38節

賛美・(説教前)讃美歌21・305「イエスの担った十字架は」

   (説教後)讃美歌21・436「十字架の地に」

 本日は棕櫚の主日であります。本日より受難週となり、イエス様の最後の一週間になります。私のために主イエス・キリストは十字架への道を歩まれるのであります。主の十字架を仰ぎ見つつ歩む一週間であります。

  ヨハネによる福音書は12章12節以下に都に入るイエス様を記しています。都の人々は、なつめやしの枝を持って迎えに出たと記されています。前の口語約聖書は「棕櫚の枝」と訳していたので、この日を「棕櫚の主日」と称するようになりました。この都を入ってくるローマの総督やユダヤの王様等に対し、都の人々は儀礼的に歓呼して出迎えていました。その時、王様にしてもローマからの総督にしても、軍馬にまたがり、家来を連れてどうどうと入城してきます。今、同じように人々から歓呼して出迎えられているイエス様は、軍馬ではなく、ロバに乗っての入城なのです。ロバは大変おとなしい動物であり、平和の象徴でもありました。旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に、「人々よ、歓呼の声をあげよ。あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る」と記されています。イエス様はこの預言を実現されているのであります。まさにイエス様は人々に平和のために、ロバに乗ってこられたのでした。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に平和を与えています。それは14章27節ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と示しました。そして、イエス様が復活されて弟子達に現れたとき、「あなたがたに平和があるように」と言われました。まず、平和を与え、弟子達を励ましたのであります。「平和」「平安」をヘブル語で言えば「シャローム」であります。平和であるということは、神様との関係が正しく導かれることなのであります。関係とは、人間が神様のお心により生きることであります。今や主イエス・キリストは平和を与えるために十字架の道をまっすぐに進まれているのであります。ひたすら神様のお心に従うイエス様でありました。私たちはこのイエス様の姿を示される前に、旧約聖書において、黙々と神様のお心に従う一人の人を示されています。それは、アブラハムという人でありました。

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 アブラハムは聖書の民族の最初の人であります。創世記12章に神様がアブラハムを選ばれることが記されています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」と示されています。アブラハムはこの神様の言葉に従い、旅立ちました。常に神様の御心に従うアブラハムでありました。そこで今朝の聖書は、創世記22章11節以下でありますが、22章1節から示されなければなりません。アブラハムと妻サラとの間にイサクと言う子供が与えられています。与えられたイサクを大切に育てていたアブラハムに神様が命じられるのです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との命令でした。他のことならともかく、愛する独り息子をささげなさい、と言われているのであります。アブラハムは神様からの命令を受けたとき、その神様の命令に従います。聖書はアブラハムの気持ちは一切記しません。ただ神様の命令に黙々と従うアブラハムなのです。神様からの呼び出しがあった時にも、神様の導きに委ねて故郷を後にしました。アブラハムは黙々と神様のお言葉に従う姿が記されているのです。イサクを神様にささげるということでありましても、愛する独り息子です。その子どもを殺して神様に献げなさいと言われ、何か自分の気持ちを言うべきでありましょう。アブラハムは神様のお言葉に従います。示されたモリヤの山に来て、祭壇を築き、息子を縛り、祭壇の薪の上に載せるのです。そして、息子を殺そうとしました。そこで、神様の声があります。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたは、自分の独り子である息子ですら、わたしにささげることを惜しまなかった」との御声を聞くのでした。この神様の言われることを示されるとき、私たちはどこかで聞いたような内容であることを知ります。そうです。独り子を惜しまないで献げること、それは神様ご自身でありました。ヨハネによる福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。アブラハムのイサク奉献は、神様の人間の救いを示されたものなのです。

 ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが、ご自分の「時」に向かってひたすら歩むことを証しています。今朝の聖書は、いよいよ大詰めになり、弟子に裏切られ、逮捕される場面であります。このヨハネによる福音書は12章で主イエス・キリストの都に入ることが記されています。そして、13章はイエス様がお弟子さん達の足を洗ってあげること、お弟子さん達と最後の晩餐をしたことが記されます。そして、その後14章から16章まではイエス様の決別説教が記されています。そして、17章ではイエス様のお祈りが記されているのです。イエス様の「時」に向かっての歩みを示されるのです。

 長い決別説教と長いお祈りをしたイエス様は、いよいよ行動を開始されます。18章1節に、「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」と書き出しています。キドロンの谷と記されていますが、マタイとマルコによる福音書ゲッセマネの園としています。イエス様はたびたびここに来ており、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダもここはよく知っている場所でありました。ユダは一隊の兵士を連れ、このキドロンの谷に来たのです。その時、イエス様は「誰を捜しているのか」と言われます。彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」と言われました。その時、人々を手引きしてきたユダは後ずさりして、地に倒れたと記しています。さらに、イエス様は「誰を捜しているのか」と尋ねます。彼らは「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」とイエス様はご自分を示されたのであります。ここにもイエス様はご自分の「時」に向かっていることが証されています。「時」は十字架にお架かりになる時なのです。「時」は救いの時であるのです。

 今朝の聖書、ヨハネによる福音書は、ローマから派遣されている総督ピラトが決断できない姿を記しています。ユダヤ教の指導者たちによってピラトのもとに連れて来られたイエス様にピラトが尋問します。しかし、よくわからないので、またユダヤ人の方に行き尋ねます。それでまたイエス様に尋ねているのです。イエス様が、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。するとピラトは、「真理とは何か」と言いますが、結局、イエス様を十字架に架けることを決するのでした。

 主イエス・キリストが十字架にかけられて死ぬことは、当時の指導者達のねたみによるものです。主イエス・キリストが人々に現れ、神様の御心を示したとき、人々は新鮮な思いでイエス様のお話しを聞きました。それはまったく新しい教えではなく、今までも示されていたことですが、イエス様により喜びと希望のお話しとして人々に示されたのであります。人々がイエス様に心を向けていくことを知った指導者たちは、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(12章19節)と言うのです。時の社会の指導者達がねたみを持ち、イエス様を十字架で殺してしまいますが、神様はこの十字架を救いの基とされました。主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある悪い姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。私たちは、イエス様がご自分の死と共に、私の罪を担ってくださったことを示されるのであります。十字架は私たちの救いの原点です。私たちを救うために、ご自分の「時」のために、まっすぐに十字架の道を歩まれる主イエス・キリストを示されています。

棕櫚の主日はイエス様が十字架に向かう始まりです。従って、イエス様を信じる者は悲しみの一週間でもあるのです。日本のキリスト教は、この受難週を克己の生活とし、イエス様のご受難に与りながら歩むことになっています。しかし、イエス様のご受難でありますが、このご受難によって私達は救いへ導かれるのでありますから、喜びの始まりと言わなければなりません。そのことを強く示されたのは、以前、スペイン・バルセロナ滞在中にカトリック教会の棕櫚の主日ミサに出席してからでした。

スペイン・バルセロナカトリック教会の受難週ミサに出席しました。この日は子供たちも教会に集まります。子どもたちが棕櫚の枝をもって集まっています。この棕櫚の枝は露天商が売っているもので、それらを求めて子ども達が集まってくるのです。子ども達は神父さんと共に聖壇に上がります。そして、いよいよイエス様が都エルサレムに入られたとき、人々が歓呼してイエス様をお迎えしたように、子ども達は棕櫚の枝を聖壇の床に打ち鳴らし、喜びつつイエス様をお迎えするのでした。このミサの経験により、私は受難週の歩み方が変えられました。受難週はイエス様のご受難への道ですが、私たちお救い下さることなのです。喜びの始まりなのです。イエス様の十字架のお救いを感謝し、心から喜びたいのであります。その喜びを持つということが、祝福の人生を歩むと言うことなのです。

<祈祷>

聖なる御神様、十字架によりお救いくださいまして感謝します。救いを喜びつつ歩ませてください。キリストの御名によって、アーメン。

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説教「救いへの道しるべ」

2024年3月17日、六浦谷間の集会

「受難節第5主日

                      

説教・「救いへの道しるべ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書63章7-14節

   コロサイの信徒への手紙2章6-15節

   ヨハネによる福音書12章20-36節

賛美・(説教前)讃美歌21・302「暗いゲッセマネ

   (説教後)讃美歌21・511「光と闇とが」

 

 受難節第五週の歩みとなり、次週はいよいよ棕櫚の主日であります。「棕櫚の主日」と言うのは、イエス様が都のエルサレムに入ったとき、イエス様の噂を聞いていた人々が、「棕櫚の枝」を道に敷いて、喜んでイエス様を迎えたことに由来します。それは口語訳聖書のヨハネによる福音書が記していたからであります。共同訳聖書になってからは「棕櫚」ではなく「なつめやし」と訳されるようになりました。それでも、「棕櫚の主日」と言われているのです。それまでイエス様は人々に希望を与え、励まし、力づけ、病気や体の不自由な人を癒したりしていましたので、その噂は都の人々にも伝わっていました。だから、イエス様が都に入ってきたとき、人々は棕櫚の木の枝を道に敷き、あるいは自分の上着を道に敷いて絨毯のようにして、歓呼して迎えたのでした。こうして人々の喜びが高まったのですが、イエス様にとっての都入りは十字架への道の始まりであったのです。都に入ったのは日曜日でありましたが、その金曜日には捕えられて十字架につけられ、殺されてしまうのです。そのように一週間の出来事でしたが、今の私達はイエス様の十字架までの40日間が設定され、この期間を受難節として、イエス様の十字架の御苦しみを見つめ、その十字架が私をお救いになる根源として歩むのです。今は受難節として歩んでいます。

 イエス様の十字架の救いは、「救いへの道しるべ」であります。

  「わたしは心に留める。主の慈しみと主の栄誉を。主がわたしたちに賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」と旧約聖書でイザヤと言う預言者は述べています。イザヤ書63章7節以下64章11節までは「執り成しと嘆き」との表題で記されています。ここでは神様の救いの歴史を回顧しています。旧約聖書の信仰は、神様の導きを回顧することでありました。 今朝のイザヤ書も、まず歴史を導く神様に感謝しています。そして、神様は人々の救い主となり、導いておられることを示しているのです。イザヤ書63章9節、「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」と示しています。歴史を回顧する限り、神様の慈しみと恵みを厳然と示されるのです。神様が人々を担ってくださっていることを示されるのです。しかし、聖書の人々は不信仰な姿をいつも現していました。例えば、モーセによってエジプトを脱出したときにも、日が経つうちに食料不足となります。モーセに詰め寄り、我々をこの荒れ野で死なしめるために連れ出したのかと迫るのです。現実しか見ないからであります。今置かれている状況は苦しい。これを打開するためにいろいろな方法を考えます。しかし、思うように打開できないのであります。その時、何よりも歴史を回顧することなのです。今の自分があること、それは神様の導きであり、慈しみと恵みにより今の自分がいるということなのであります。神様は私の苦難を御自分の苦難とされているのです。そして、歴史を通して聖書の人々を担ってきたのであります。人々と言えば、常に現実しか見ていません。現実が楽しければそれで良いという生き方です。だから、他の神々に心を向けていくのです。他の神々は楽しいのです。今の自分を楽しくさせてくれるのが、偶像の神様なのです。何故楽しいのか。それは自分の思いを投げかけており、その偶像により自分の思い通りの答えが返ってくるからです。そのような聖書の人々でありました。しかし、神様は忍耐をもって人々が神様の御心に帰るのを待っておられました。そして、人々を担って導くのであります。私を担う存在は神様であることを、人々は知るようになるのでありました。神様が私を担ってくださっているということ、その事実を信じて歩むことなのです。これが聖書の人々の信仰告白なのです。

  私を担う存在は主イエス・キリストであります。その存在を証しているのがヨハネによる福音書12章20節からであります。今朝の聖書はイエス様の救いの時が今や到来したことを記しています。このヨハネによる福音書の始めの部分、2章1節以下に「カナの婚礼」におけるイエス様の御業が記されています。イエス様と弟子達がその婚礼に出席しています。婚礼の裏方ではぶどう酒がなくなったというので困惑していました。するとイエス様の母となっているマリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言うのです。そのとき、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言うのでした。しかし、イエス様は水をぶどう酒に代えるという「しるし」を行ったのであります。「わたしの時」とは、イエス様の「救いの時」であります。今朝の12章23節でイエス様が「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われています。栄光を受ける時が救いの時でありますが、それは十字架にお架かりになる時なのであります。イエス様が、その時が来たと言われたとき、既に都のエルサレムに入られていたのであります。いよいよご受難に向かわれていくイエス様なのです。

 27節、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」とイエス様はお祈りしています。ヨハネによる福音書は刻一刻受難に向かうイエス様の証をしていますが、イエス様の思いはどのようなものであるかについては記していません。イエス様はこの御自分の「時」を実現することによって、どうなるかを示しています。それは「多くの実を結ぶ」ことになると言われるのであります。御自分を一粒の麦と言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」と示しておられます。一粒の麦の種が地に蒔かれたとき、それは死ぬのではありません。しかし、あたかも死んだように、しばらくは地面の中にいることになるのです。しかし、やがて芽が出てきます。すくすくと伸びて花が咲き、そして豊かな実をつけることになるのです。イエス様は十字架によって死なれました。しかし、それで終わりではありません。三日目に復活されました。人間は救われたのです。イエス様の十字架は、わたしの中にある自己満足、他者排除の罪を滅ぼされたのです。十字架を仰ぎ見るほどにわたしの罪が小さくなっていくのであります。「自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と示されています。「自分の命を憎む」とは自己満足、他者排除を滅ぼすことであります。十字架を仰ぎ見ることは「自分の命を憎む」ことなのであります。自分中心の思いをなくすことは、主イエス・キリストのお心をいただくことであります。それにより永遠の命へと導かれるのであります。旧約聖書にも記されているように神様が人々を担っているのです。イエス様が十字架により私たちを担ってくださっているのです。今朝は、私たちを担ってくださっている神様を示されているのです。「救いの道しるべ」を示しているのです。

  私を担う存在は主イエス・キリストです、と示されても、どのように担われているのでしょうか。それをよりよく示すのは「あしあと」という詩であります。この詩は作者不明とされていましたが、最近になってマーガレット・F・パワーズさんの作詞であることが判明しています。そして、パワーズさん自身がこの詩ができる過程を本にまとめています。詩が書かれることになるのは、パワーズさんが若い時、交際していた男性、その人は牧師になる人ですが、結婚するにあたり、両親との兼ね合いで悩んでいたときです。そのような悩みの中で書いた詩を「私は夢を見た」という題にしたのです。それから、二人は結婚し、美しい娘を与えられて、幸せな生活でした。ある時、家族でピクニックに出かけたとき、娘が川に落ち、滝つぼまで落ちていくのです。そのショックでパワーズさんのお連れ合いは心臓発作で倒れてしまいます。しかし、そこにいた人々により娘は助けられ、お連れ合いはすぐさま病院に搬送されて一命を取り戻しました。療養中のお連れ合いに、(昔の言い方ですが)看護婦さんが、作者は知りませんが、と言いつつ一編の詩を読んでくれました。その時、お連れ合いは、「私は、作者を知っています。私の妻です」と言ったのでした。若い時、パワーズさんの青春の悩みの中で作られた詩が、今や人生の究極にいる人に大きな力を与えることになりました。そして、今や世界中の人々がこの詩によって、主イエス・キリストこそ私を担う存在であることを示されているのであります。「あしぁと」の詩は、自分が苦しい時、いつも共におられるイエス様の足あとがないと思うのですが、イエス様が私を背負ってくださっているので、私の足あとではなく、イエス様の足あとなのでした。その事実を知った作者が、イエス様が「救いの道しるべ」であると証しをしているのであります。人生の悩みがありますが、「道しるべ」が与えられているのです。

 私を大切にしてくださる方、主イエス・キリストが私のいかなる人生にも関わり、導いてくださっているのです。旧約聖書は神様が人々を担い、祝福の歩みへと導いたことを示していました。そして、新約聖書はイエス様がわたしたちを担うために十字架にお架かりになられたことを示しているのです。イエス様が私たちを担ってくださっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様が私たちを担って下さり感謝します。十字架に励まされて歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

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説教「祝福されるささげもの」

2024年3月10日、六浦谷間の集会

「受難節第4主日

                      

説教・「祝福されるささげもの」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上9章27-10章1節、6-7節、

           コリントの信徒への手紙<二>1章15-22節

           ヨハネによる福音書12章1-8節

賛美・(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」

          (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」

 受難節第四週の歩みとなりました。今年は2月14日から受難節に入りました。イースター、復活祭が今年は3月31日であり、2月14日から3月30日までの40日間、イエス様の十字架への道を示され、その十字架が私をお救いくださる根源であることを示されつつ歩むのであります。今はその受難節のさなかを歩んでいます。受難節の歩みは十字架を仰ぎ見つつ歩むことです。それが私達の祝福への道なのです。

 2月29日に大塚平安教会に所要がありまして行くことになりました。木曜日でして、聖書研究・祈祷会が終わった所でした。小林牧師と共に三人の方がおられました。その中に、昨年の5月28日のペンテコステ礼拝で洗礼を受けられた姉妹がおられ、大変うれしく示されたのであります。この方は生まれたときからお母さんと共に礼拝に出席されていました。私が2010年3月に退任するとき、まだ中学生であったと思います。彼女のお兄さんは私が退任する年のクリスマスに洗礼を受けておられました。その後、彼女とはお手紙等で消息を示されていました。私の退任後、新しい牧師が就任されていましたが、礼拝に出席しつつも洗礼には至りませんでした。そして、その新しい牧師も12年勤めましたが転任されたのです。その後、すなわち昨年の4月からは専任の牧師が決まりませんので、代務者を立てての歩みとなっていたのです。それで、昨年のペンテコステ礼拝の説教にお招きをいただいたのでした。それにより、先ほどお話しました姉妹が洗礼を申し出られたのでした。私の在任中に私から洗礼を受けられなくて悔やんでおられたのです。先日、私が久しぶりに大塚平安教会をお尋ねした時、祈祷会に出席されていたことを示され、大変うれしく存じました。牧師として、洗礼を授けた方が、聖書研究・祈祷会に出席されておられること、信仰の歩みを力強くされておられることを感謝したのでした。まさに祝福される信仰の歩であり、今朝、示される祝福されるささげものであると示されたのでした。

  今朝はメシアについて示されています。メシアとは「救い主」という意味ですが、正確には「油注がれた者」との意味です。指導者となるべき人の頭に油を注ぐのです。油注がれた者は指導者となり、人々をよりよく導く使命があります。今朝の旧約聖書サムエル記上におきまして、サウルという人が油を注がれます。従って、サウルはメシア、救い主にならなければなりませんが、彼は救い主にはなれなかったのであります。その頃、聖書の人々は12部族による歩みでした。祭司サムエルの指導の下に歩みを進めていたのです。祭司とは神様の御心を示し、人々を導く働きをする人です。人々は何事も祭司に相談し、あるいは指示を受けて歩んでいたのです。人々は周辺の国々との関りの中で、我々にも王様を選任してほしいと申し出るのでした。これに対してサムエルはこの民族の中心は神様なのに、王様を選ぶことはよろしくないと思います。それで神様にお祈りします。しかし、神様は、人々の気持ちは変えられないから、望む通りに王を選任しなさいと示すのです。

 こうして王様が立てられることになりました。サウルは当初は神様の御心を求めては、人々の指針としていました。しかし、次第に人間的な思いになって行くのであります。サウルは王として周辺の国々と戦い、勝ち戦をしていきます。しかし、サウルは神様のお心ではなく、家来達の心になびくようになります。ひたすら敵の戦利品ばかりを求めるようになるのです。神様はこのようなサウルを見捨てることになります。そして、次に油を注がれるのは少年ダビデでありました。油注がれた者は忠実に神様のお心を行わなければならないのであります。メシアは油注がれた者として、人々を救い、人々を平和に導かなければなりません。サウルの次の王、ダビデは忠実に御心に従い、実行します。しかし、ダビデも極めて人間的な生き方があり、神様の怒りを買うこともありました。しかし、ダビデは総合的には神様の御心に忠実に生きた人です。人々を平和に導いたのです。従って、後の世の人々は再びダビデのような人が現れ、我々を救ってもらいたいという希望を持つようになったのです。これが旧約聖書の中にある「救い主待望思想」でありました。その希望はイエス様が現れた新約聖書時代でも人々が持っていたのです。ですから新約聖書福音書にはイエス様が救い主であると信じる人々、いや違うと思う人々の姿が記されているのです。新約聖書は、今や「救い主が現れた」ということを人々に示しているのですが、それを信じない人々の記録であります。主イエス・キリストが現れ、結局、人間はどうしても救われないので、十字架にお架りになって「救い」を実現されたことが、新約聖書の証しということなのです。

  「メシア」との語は旧約聖書が書かれているヘブル語であります。メシアをラテン語で言えばメサイアとなります。そして、新約聖書が書かれてギリシャ語で言えばキリストであります。従って、「イエス・キリスト」は名前と苗字ではなく、「救い主イエス」との告白なのです。イエス様を信じて歩むことが「油注がれた者」であります。メシアは「油注がれる」との意味ですが、新約聖書の時代には油を注ぐという儀式はなくなりました。それに類することを考えれば「洗礼」がその意味になるでしょう。なぜならばメシアは神様のお心を実行するからです。洗礼を受けた者は神様のお心に生きるからであります。今朝のコリントの信徒への手紙<二>1章21節には、「わたしたちとあなたがたとをキリストに結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」と示されています。洗礼を受けてイエス様を信じて歩む、「油注がれた者」としての歩みとなるのです。

今朝のヨハネによる福音書はイエス様への油注ぎが示されているのです。イエス様はマルタさんとマリアさんの家に行きます。弟子達も一緒でありますので、夕食の接待は大変であったでありましょう。マルタさんは一生懸命に給仕をしています。同じような状況がルカによる福音書10章38節以下に記されています。そこでもマルタさんとマリアさんの家にイエス様が来られました。マルタさんは接待に忙しくしているのに、マリアさんはひたすらイエス様のお話を聞いているのです。そこでマルタさんはイエス様に、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」と言います。その時イエス様は言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエス様は言われています。この部分と今朝の状況は似ているようです。相変わらずマルタさんはもてなしに忙しくしています。しかし、マリアさんは純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったのであります。家の中は香油の香でいっぱいになったということです。1リトラは326gです。

 マリアさんがイエス様に香油を注いだとき、弟子のイスカリオテのユダが、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と批判します。当時の世界では1デナリオンは一日分の生活費です。300日分の生活費を無駄にしていると言っているのです。聖書も記しているように、イスカリオテのユダは人間的な損得しか考えなかったのです。これは損得ではなく、マリアさんの信仰であることをイエス様は示しています。イエス様は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と示されたのであります。まず信仰であると示しているのです。まず神様に委ねる、その様な生き方が求められているのです。この社会には、私達がしなければならないことがたくさんあります。だから私達はいろいろと心を寄せているのです。そのような状況でありますが、まず神様への信仰が大切であるということです。神様に自分をささげて生きるとき、自ずとしなければならないことが導かれて来るのです。私達の人生は損得を計算しながらの歩みではなく、神様に委ねつつ歩むことなのです。マリアさんのイエス様への香油注ぎは信仰であることを示しているのであります。祝福されるささげものになったのであります。

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  「祝福されるささげもの」は十字架にお架りになり、私達をお救いくださったイエス様を信じて生きる人生であります。その歩みが祝福のささげものなのです。そのため、私達はいつも十字架を仰ぎ見つつ歩むこと、そこに祝福のお導きがあるということを今朝は示されているのです。損得の計算では人生の祝福はないということであります。本日の旧約聖書で、「メシア」を示しているのは、神様の御心に生きる姿として「メシア」を示しているのです。メシアに選任されながら、損得に生きたサウルの失格をも示していたのでした。十字架を仰ぎ見て生きる人生が祝福であるのです。そして、私たちも油注がれた者であり、メシアとしての歩みが導かれていることを示されているのです。メシアとしての人生は自己満足、他者排除を克服し、イエス様が教えてくださった「自分と同じように隣人を愛する」ことであります。その人生が「祝福されるささげもの」の人生なのです。祝福されるささげものをいよいよささげたいのであります。 

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝致します。いよいよ十字架を基として歩ませてください。イエス様の御名により、アーメン。

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説教「永遠の命を与えられる」

2024年3月3日、六浦谷間の集会

「受難節第3主日

                      

説教・「永遠の命を与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨシュア記24章14-24節

   ガラテヤの信徒への手紙2章11-21節

   ヨハネによる福音書6章60-71節

賛美・(説教前)讃美歌21・299「うつりゆく世にも」

   (説教後)讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」

 受難節第三週であります。後一ヶ月で受難週となり、主のご復活となります。今は主のご受難が私の救いのためであることをしっかり受け止めつつ歩みたいのであります。昔は受難節となると克己の生活が奨励されました。昔はと言いますが、今でも克己の生活は必要なことでもあり、実践されておられる方もいます。「克己」の「克」は「力を尽くして相手に打ち勝つ」という意味です。この場合、相手は「自分」でありまして、自分に打ち勝つのであります。自分は、いつも自己満足に生きています。自分の思いのままに歩んでいるのです。

 昔は教団から克己献金袋が送られてきました。しかし、今は送られてきません。主のご受難をそれぞれが偲びつつ歩むことが本筋であり、各自に犠牲を強いるようで、克己献金を止めたのかもしれません。いずれにしても、克己の歩みは大切であり、受難節ではなくても、信仰に生きるものに求められている生き方でもあるのです。

 私たちが主イエス・キリストを信じて歩むこと、それは私たちもイエス様の歩みに倣いつつ歩むことなのです。それは受難節に限りません。常にイエス様に倣いつつ歩むことで祝福があるのです。私の青年の頃、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)という本を愛読しました。聖書に次ぐ宗教的古典として世界の人々に愛読されている本であります。日本においてもキリシタン時代から訳されていたとも言われています。青年の頃に読んだとき、強烈な示しを与えられたのでした。修道院に入ったような思いで読んだことが思い出されます。信仰に生きるには、常にイエス・キリストに倣うことが教えられているのです。「キリストに倣いて」を読むとき、限りなく自分を捨てることであり、しかし、限りなく「いのち」へと導かれるのであります。「永遠の命を与えられる」のであります。

 「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきり立場を表明したのはヨシュアでした。ヨシュアモーセの後継者としてイスラエルの人々を導いた人です。モーセは人々を奴隷の国エジプトから脱出させ、荒れ野の40年間を通して、神様への信仰を教え導きました。そして、約束の地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にして決別の説教を行いました。それが申命記であります。そして、モーセの使命はそこまでで、後のことは若きヨシュアに託したのでした。ヨシュアは指導者として、神様から賜った土地であるカナンに侵入し、12部族の土地を得たのであります。その時、ヨシュアイスラエルの全部族を集めました。そして、人々に今日までの神様の絶大な恵みと導きを話します。それは、最初の人、アブラハムの選びから始まり、イサク、ヤコブの時代に及び、ヤコブの時代にはエジプトに下り、奴隷の境遇になったもののモーセを通して救い出され、荒れ野の40年間もマナを与えられつつ導かれ、そしてカナンに到着し、定住へと導いた神様の恵みと導きであります。そして、神様の言葉として、「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」(ヨシュア記24章13節)ことを示します。だから、主の導きと恵みに応えて、神様に仕えることを人々に促しているのであります。新しい土地に生きるとき、偶像を拝んだり、他の宗教に気持ちを向けていくことが考えられるからでありました。

 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

 神様は歴史を通して導いてくださった存在であり、人々にとって「いのち」の根源なのであります。「いのち」である神様に従いなさいとヨシュアは、人々に勧告するのです。このような信仰に生きるヨシュアモーセの後継者に選ばれたとき、神様はヨシュアを励まします。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この励ましを基にして、ヨシュアは神様の約束の土地、カナンに侵入したのでした。そして、改めて人々に神様への信仰を促しているのであります。何よりも「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきりと信仰の告白をしたのであります。神様の御心をいただいて歩むということですが、導きの霊に従うということなのです。

  「導きの霊」に従うのか、私たちに問われていることであります。「導きの霊」をいただきながら、「導きの霊」を拒否し、裏切る人の弱さを示しているのがヨハネによる福音書であります。今朝は6章60節以下でありますが、ここに至る前の部分、6章1節以下の示しが全体の教えとなっているのであります。まず、6章1節以下では五千人に食べ物を与えられたイエス・キリストが報告されています。食べ物はパンであり魚でありました。五千人もの人々に対して、イエス様は「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。弟子達は、たとえお金があっても、こんなに大勢の人に対しては食べさせることはできないと思います。しかし、イエス様は少年が持っていたパン五つと魚二匹を受け取ると、感謝の祈りをささげ、それを五千人の人々に分け与えられたのでした。人々は満腹したのであります。この大きなしるしを示した日の翌日、人々はイエス様を捜します。ようやく探しあてると、イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と、五千人にパンのしるしを与えた意味を示されたのでした。「導きの霊」をいただく示しなのです。確かにパンにより満腹しましたが、その象徴的しるしは神様の救いであることを知らなければなりません。このパンこそ「いのちのパン」なのであります。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とイエス・キリストは教えておられます。

 その後、イエス様と人々のあいだにパン問答が続きますが、イエス様ご自身が天からのパンであり、「いのち」であることを人々は理解できないのでありました。結局、人々はイエス・キリストにつまずいたのであります。そして、多くの弟子達がイエス・キリストから離れたということです。イエス様につまずき、裏切るのはイエス・キリストの「いのちのパン」を拒否したことになったのでした。「いのちのパン」の教えは、まだ予備的なものであります。この後、イエス・キリストは十字架への道を歩むことになります。人間が自分のためにしか生きられないので、共に生きることができるように十字架にお架かりになりました。これは時の社会の指導者達のねたみにより殺されることになったことでした。しかし、神様はこの十字架により、人間を救う基にしたのであります。人間の自己満足、他者排除は人間が持つ根源的な罪の発祥元であります。いつの間にか他者を切り捨てながら生きている人間なのであります。その人間が持つ根源的な罪を十字架により滅ぼされたのでありました。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」との意味であります。「神のパン」は見える形ではありません。「神のパン」すなわち「導きの霊」なのです。

  今は、世界の人々が戦争に心を痛めているのです。いつの時代でも戦争が行われてきたのですが、今は大きな戦争になっており、その渦中の人々が苦しんでいるのであり、いつもニュースで示されています。ロシヤのプーチン大統領に共鳴している姿が報じられていますが、日本の国も戦争をした国であり、戦争は反対であっても肯定せざるを得ない社会になるのです。国中が戦争に賛成し、相手の国を亡ぼすことを願っていたのでした。しかし、国中が戦争を進めたのではなく、反対し、抵抗した人々も多くいたのでした。ロシヤでも戦争反対の人々がいるのですが、そういう人たちが抹殺される状況も示されているのです。この時、私たちはイエス様が約束してくださっている「永遠の命を与えられる」歩みを導かれたいのです。イエス様がくださる命のパン、それはイエス様の十字架の救いを信じるということです。私たちにとって、十字架の救いを信じるということは、「導きの霊」によって示されるのです。導きの霊は見えません。しかし、私たちをしっかりと導いてくださるのです。イエス様は私たちの罪の姿、自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたのです。イエス様の十字架を仰ぎ見ることにより、永遠の命が与えられるのです。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と示されています。この霊の導きにより永遠の命が与えられるのです。イエス様の救いの十字架を仰ぎ見ることで霊のお導きが豊かに与えられるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを与え、命のパンを与えて下さり感謝致します。お導きにゆだねつつ歩ませてください。主の御名により、アーメン。

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説教「信仰の導き」

2024年2月25日、六浦谷間の集会

「受難節第2主日

                      

説教・「信仰の導き」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記下6章8-17節

   エフェソの信徒への手紙5章6-14節

   ヨハネによる福音書9章1-12節

賛美・(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」

   (説教後)讃美歌21・520「真実に清く生きたい」

 2月の歩みをしているうちにも、すでに2月も終わりますが、まだまだ寒さが続き、春の到来を待ち望んでいる状況です。毎日、朝起きると天候が気になり、外の状況を確認したり、天気予報等で確認したりします。今は寒さが気になりますが、今日はお天気なのか、雨なのか、確認しながら過ごしているのです。天気予報では風の予報もしていますが、風の予報はあまり気にしてないようです。しかし、春になるとき春一番と言われる風が強く吹き、困ることがあります。帽子が飛ばされたり、家の周りに置いていたものが飛ばされたり、結構な被害が出て来るのです。しかし、その後は穏やかな日々となり、春の日差しを喜ぶようになるのであります。そういう意味では、今の季節は一番天気が気になる時なのでしょう。

 自然というものは通常は穏やかであり、自然の移ろいを喜んでいるのですが、その自然が荒れる時があるのです。雨は雨でも大雨となり、川の氾濫、土砂くずれ等の災害を起こします。過日の能登半島地震災害で困難な状況で今も過ごしている人々がおります。また雪の被害があります。特に日本海側は大雪となっており、物流が止まってしまうという災害が起きるのです。また海は、いつも波は静かですが、大風で荒れ狂うこともあり、地震により洪水がおき、これも大変なことになるのです。このように私達は自然の変化とともに歩んでいますが、その中にあって信仰が導かれていることを今朝の聖書は示しているのです。

  列王記は題名のごとく、王様達の興亡を記しているものであります。今朝の聖書はそのエリシャの働きを示しています。アラムの国とイスラエルの国が戦っている状況です。アラムの王様は家臣達と作戦会議をし、イスラエルの攻略を決めます。神の人エリシャはそれを察知し、イスラエルの王様にアラムの作戦を知らせるのです。それでイスラエルの王様はアラムの作戦の備えをします。アラムの国は作戦を変えるのですが、それもエリシャによってイスラエルの王様に知らされるのです。アラムの王様はことごとく作戦が相手に分かってしまうのは、誰かがイスラエルの王と通じているからだと家臣に言います。すると家臣の一人が、イスラエルには預言者エリシャがおり、彼が何もかも我々の作戦を王様に知らせているのです、と答えるのでした。そこで、アラムの王様はエリシャを捕らえるために、エリシャがいる町を包囲します。エリシャの従者は町がアラム軍に包囲されていることを知り、あわててエリシャに報告します。すると、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、神様にお祈りします。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願うのであります。すると、従者の目が開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見ることになるのであります。天の軍勢が共にいることを知り、神様のお導きとお守りをはっきりと見たのであります。人間的な思いでは、町を囲んでいるアラム軍しか見えませんが、そこには神様の導きがあり、この現実に神様の真実が示されていることをはっきりと見たのであります。この現実を私の目で見る限り、苦しい状況と判断して恐れを持ちますが、神様にあって心の目が開かれることにより、大きな導きを見ることになるのです。

 アラム軍は神様により目がくらまされ、イスラエルの中のサマリアに導かれることになります。サマリアイスラエルの中心の町でありました。イスラエルの王様はそのアラム軍を撃ち殺すとエリシャに言うのですが、エリシャは食事を与えるよう示します。いわば捕虜を暖かくもてなして返すことにより、もはや戦いを挑んでこなくなるのであります。神様がアラム軍の目をくらませているのですが、結果的には戦いを終わらせることの導きでもありました。アラム軍も真実を見ることになったというわけです。

 神様のお導きとお恵みは私たちを包んでいるのです。しかし、私たちは私を包む神様のお恵みが見えません。それは、現実を私の気持ちで見ているからであります。私の気持ちは自己満足的に判断しますから、自分にとって有利なのか不利なのか、得なのか損なのかとの観点で見ます。従って、そこに示されている神様の恵みの事実を見ることができないのであります。神様にこの私を委ねるとき、そこにこそ神様の豊かな導きと恵みを見ることになるのであります。

  今朝はヨハネによる福音書は9章であります。9章には生まれつきの盲人が癒されたことが記されていますが、それは見える、見えないという肉体的なことと共に、神様の真理が見えることへの示しであります。イエス様と弟子達が通りすがりに一人の生まれつき目の見えない人を見かけます。すると弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエス様に聞くのです。この時代、因果応報的に考えていたので、病気の人、体の不自由な人は罪の結果と理解していました。それは本人か、両親か、あるいは先祖が悪いことをしたからなのです。うっかり風邪も引けない社会でもありました。イエス様は罪人といわれる人々と共に過ごし、食事をしているというので批判されることが福音書に記されています。その罪人といわれる人達は病気の人であり、体の不自由な人々であったのです。弟子達の質問に対してイエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。イエス様は因果応報的な考えを否定しました。神様の御業がこの人に現れるためであると教えたのであります。

 人はそれぞれの姿で生まれ、この世に生きることになります。みな同じ人間ではありません。姿や形、性格もみな違うのであります。あるいは生まれつき目が見えないこともあります。「神様の御業が現れるために」今の私の存在があるということなのです。因果応報の考えの社会の中で、イエス様は人間の真の姿を示したのであります。信仰の導きを示したということなのです。生まれつき目の見えない人はイエス様により見えるようになりました。すると、この人を知っている近所の人々が不思議がるのです。どうして見えるようになったのか、納得できません。そこで近所の人々は「お前の目はどのようにして開いたのか」と聞きます。イエスという方が見えるようにしてくれました、と答えても信用しない人々でした。それで、人々は社会の指導的な立場のファリサイ派の人々のところへ、この生まれつき目の見えなかった人を連れてゆきます。そこでも、どうして見えるようになったのかと聞かれます。それで同じように答えるのですが、やはり納得してくれません。指導者達は、今度は両親を呼んで聞くのです。両親は答えます。「どうして見えるようになったのかは分かりません。本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのでした。両親にとって、やたらなことを言えば、追放されることを知っていたからです。イエス・キリストをメシア、救い主という者は追放すると決められていたからでありました。そこで、また生まれつき目の見えなかった人を呼んで、どうして見えるようになったかを聞くのでした。彼は答えました。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」とはっきり自分を証したのでありました。その後、目の見えなかった人はイエス様に出会います。イエス様はご自分がメシア、救い主であることを示すと、「主よ、信じます」と言い、ひざまずいたのでありました。その時、イエス様は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われたのであります。そこに居合わせたファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を聞き、「我々も見えないということか」と言います。それに対して、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」と言われたのであります。

 私たちが「見える」と言ったとき、見えているものは、自分の意に適ったものであります。自分の意に適わないものは見たくないのであります。この生まれつき目の見えない人が見えるようになったとき、そういうことは今までにないことであり、その事実を認めたくないのです。この人は目が見えないことが当たり前なのであり、見えるという事実は否定しなければならないのです。真実を見ない、受け止めない姿勢であります。だから、イエス様は「見える」という人々は「罪が残る」と示しているのです。神様の御業を見ようとしない、御心を受け止めようとしないこと、「罪が残る」のであります。「罪がある」というのであれば、それは一過性のものです。しかし、「罪が残る」と言われたとき、今後においても罪の姿を持ち続けるということなのです。

エリシャの導きにより、従者は目が開かれ、天の軍勢を見ることになりました。信仰の導きを示されたのであります。生まれつき目の見えない人は、イエス様の御業をいただき、信仰の導きを与えられたのであります。私たちに救いの事実をはっきり見させてくれるのは、主イエス・キリストの十字架であります。自己満足が働き、自分の好みにより見たり、聞いたりしているこの私に、御自分の命をささげて、私たちの中にある自己満足を滅ぼされたのであります。十字架は私達の信仰の導きなのです。

<祈祷>

聖なる御神様、信仰の導きを感謝致します。十字架を見つめつつ、真実に生きる道を歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

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説教「御心をいただきつつ」

2024年2月18日、六浦谷間の集会

「受難節第1主日

                      

説教・「御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記17章1-7節、

   ヘブライ人への手紙4章12-16節

   マタイによる福音書4章1-11節

賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」

   (説教後)讃美歌21・461「みめぐみゆたけき」

 本日は受難節第一主日であります。前週の2月14日が「灰の水曜日」であり、この日から受難節に入りました。受難節と言うのは、この後にイースター、復活祭を迎えますが、今年は3月31日がイースターでありますが、その前の40日間は主イエス・キリストのご受難を偲びつつ歩むのです。イエス様が十字架に架けられる歩みを示されながら、その十字架こそ私をお救いになる根源であることを示されるのです。ですから受難節の40日間はイエス様のご受難を仰ぎ見つつ歩みますので、生活も質素にしつつ歩むのです。そうなると、人間の本質でありますが、質素な生活になる前に、今のうちに楽しみましょうということになるのです。美味しい肉を食べ、ご馳走を食べ、楽しく過ごすのです。それがカーニバルと言うお祭りになります。キリスト教の国ではカーニバルで賑わいます。最近のカーニバルの様子を、スペイン・バルセロナに滞在している娘の羊子が知らせてくれました。羊子の子供の義也は2月12日に誕生日を迎え7歳になりました。今の元気な孫の様子を知らせてくれたのですが、学校でもカーニバルを体験しているということでした。学校の生徒は、それぞれ普段とは異なる服装で登校するということでした。いわば仮装をして登校するのです。仮装したまま勉強をするのかな、と思いつつ楽しい写真を見た次第です。どこの国も同じですが、たのしいイベントはそれなりに楽しむわけですが、イベントの真の意味は知らなくても、みんなで楽しむことなのでした。日本でもクリスマス、ハロウィン等、表面的なことで楽しんでいるのです。このとき、受難節の意味を受け止めながら歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記17章3-7節であります。出エジプト記は聖書の人々が400年間、エジプトで苦しい奴隷の生活をしており、神様はモーセを立てて奴隷の人々を解放したことが記されています。奴隷の国から解放され、喜び勇んでエジプトを出た人々ですが、40年間は常に不平・不満の日々でありました。まず不平・不満が出るのは、食べるものに事欠いてきたときです。それは出エジプト記の16章に記されています。そこで人々はモーセに詰め寄り、食べ物がないことで抗議するのです。その時、神様はマナという食べ物を与え、人々を養うのであります。このような恵みを与えられながらも、さらにまた不平・不満を述べているのが今朝の聖書であります。今度は飲み水がないと言って騒ぎます。人々がモーセに「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ主を試すのか」と言いました。マナという驚くべき恵みを与えられながら、困難がくるとすぐに不平・不満を言う人々に、モーセは深い悲しみを持ちます。「わたしはこの民をどうすればよいのですか」というモーセに神様は言います。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにしました。神様の恵みがここでも与えられたのであります。しかし、この不信仰の人々を記念するためにも、その場所をマサとメリバと名付けたのでありました。マサは「試す」ことであり、メリバは「争い」との意味であります。人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、神様を試したからであると示されています。

 モーセは不平・不満を述べる人々を導き、神様の約束の土地・カナンを前にしたとき、人々を集め、歴史を回顧しつつ総括をいたしました。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8章1節以下)。マサ(試し)は神様がすることであり、人が神様にすることではありません。神様は私たちを力強く生きさせるために、あるときには苦しみを、あるときには悲しみを与えられたとモーセは述べたのでありました。「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と神様の導きを示したのでありました。

 神様の恵みを受け止めなさいということが今朝の旧約聖書の主題です。

 旧約聖書の主題を受け止めつつ、新約聖書の示しを与えられています。今朝の新約聖書マタイによる福音書4章1節以下は主イエス・キリストがマサ・メリバではなく、誘惑するもの、悪魔、サタンと戦い、退けた示しであります。イエス様が悪なるものを退けた示しから、私たちも誘惑を退けつつ歩みたいと願うのであります。

 1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、『霊』に導かれて荒れ野に行かれた」と示されています。40日間、断食し、祈りのうちに過ごしますが、その後に誘惑する者が現れることは分かっていたのであります。この40日間は修行でもありますが、聖書は誘惑を受けるためと記しているのであります。聖書は前の部分で主イエス・キリストの洗礼を報告しています。ナザレ村で成長し、青年となったとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでありました。イエス様は神の子であるのに、罪の悔い改めの洗礼を受けるのは何故かと問われます。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われています。イエス様は一人の人間として現れたのであります。人間であれば、罪の方向を持つ存在であるのです。一人の人間であれば、当然誘惑もあるのであります。そして、早速誘惑を受けるために荒れ野に行かれたことになるのです。荒れ野でなくても誘惑はありますが、荒れ野は誘惑をより多く与える場でもあるのです。

 主イエス・キリストは、荒れ野の40年間、イスラエルの人々が訓練された誘惑をそのまま差し出されるのでありました。誘惑する者が現れ、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。イエス様はこれから人々の中に出て行き、神様の御用をするのです。当然、体力をつけなければなりません。食べることは重要な課題でありました。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と誘惑を退けました。

 次に悪魔が登場します。二番目の誘惑は、イエス様が高い屋根の上から飛び降りるということでありました。下は石畳であります。飛び降りたら大怪我をするか死んでしまいます。しかし、悪魔は「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」というのでありました。これはまさしく神様を試みることであります。出エジプト記のマサ・メリバであるのです。悪魔はマサ・メリバをイエス様にさせようとしているのです。しかし、イエス様は言われました。「あなたの神である主を試してはならない」と言われ、誘惑を退けたのであります。

 そして、今度はサタンとの名前で登場します。第三の誘惑は、世の中の繁栄が与えられるということでありました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」とサタンは言うのでした。世の中の繁栄が悪魔の仕業とは言えませんが、悪なるものが見え隠れしていることは事実であります。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われ、サタンの誘いを退けたイエス様であります。この誘惑する者は、イエス様の内面的な姿でもあります。これから人々の前に現れ、神様の御用をするにあたり、食べること、身の保障、生活の安全の確かな方向性が必要であります。そのために荒れ野に導かれたのであります。

 主イエス・キリストが霊によって荒れ野に導かれたとき、私たちが霊によって導かれている荒れ野は、私の現実であります。今、私が生活している場は霊によって導かれた場所であります。霊によって導かれた場所は必ず誘惑するものが現れます。誘惑に負けて不平を述べ、不満を述べ、現実がままならぬと言い、現実から遠ざかるのです。イエス様は現実に現れた誘惑を退けられました。私たちが誘惑を退け、勝利者となるために十字架にお架かりになり、誘惑に打ち勝つ信仰を導いておられるのであります。

 私の現実に苦しみであると思われていますか。つらいことばかりが毎日起きていると思われていますか。こんな生活しかできないなんて悲しくなってしまうと思われていますか。もう一度、申命記におけるモーセの示しを与えられましょう。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」のであります。現実から逃げないことであります。私がこの現実に生きるために、主イエス・キリストは十字架にお架かりになられたのであります。私にある自己満足、他者排除を滅ぼされるためであります。苦しい時が一番、悲しい時が一番、自己満足が働くときなのです。

 誘惑に陥りそうになったとき、私たちは今までの自分を振り返ってみることです。神様の恵みに満ちたお導きを知ることになるのです。私のこれまでの人生において無駄は何一つありません。今、苦しいのであれば、神様はさらに私を祝福の人生に導いていることを知りましょう。イエス様が誘惑を退けたように、ただ神様の御心を求めたいのであります。祝福の人生、しあわせの人生へと導かれるのであります。

<祈祷>

聖なる神様。受難節のお恵みを感謝致します。十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。 

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